文   :社会学部  S47年卒 岩井一美
写真・構成:文学部 S47年卒 伊木幸子

何故か?
トルコ人は話しかけてくる
2006年6月中旬、わたしたち二人はトルコ周遊の旅に出かけた。
今まで旅したヨーロッパの国々とは異なる緊張感が出発前にはあった。
イスラムの国という響きから連想するラマダンなどの厳しい戒律、
又たまにはおきる自爆テロといった少々怖いイメージ

☆イスタンブール

交番の前に寝そべる野犬
早朝の町を散歩した。
石畳の坂道に大型の野犬が3匹寝そべっている。
傍には石造りの小さな交番。中から若い警官がこちらを見ている。
彼は腕にしっかり小型銃を抱えている。
きっと野犬にえさを与えて見張り番を外注しているんだ。
テロと隣り合わせの日常を垣間見た気がした
それでもイスタンブールは魅力的な街だった。
トルコは日本の2倍の国土。
そのうち97%はアナトリア(小アジア)と呼ばれるアジア大陸にある。
残り3%がトラキアと呼ばれるヨーロッパ側である。
イスタンブールはボスポラス海峡を挟んで西のヨーロッパサイドと東のアジアサイドに分かれる。市民は2つの大陸間をフェリーや車で通勤している。

ガラタ橋通勤ラッシュ風景
この街はビザンチン帝国からオスマントルコ帝国にかけて長く大帝国の首都であった。
それだけに見るべきものが非常に多い。
ヨーロッパサイドに旧市街にあるグランドバザール。4000件の店が金・銀・宝石・絨毯・スパイス等と売っている。
その昔シルクロードを通じて当方から運ばれてきた品々を売った市が今まで続いている。
トプカプ宮殿がオスマン帝国の居城 世界中から集めた宝石のコレクションは質・量ともに息を呑む見事さだ。
純金にルビーや真珠で埋め尽くしたのゆりかご、エメラルド・ルビー・トルコ石を一面につけた生活用品、89カラットのダイヤなどが宝物殿に陳列されている。
私たちは自分たちがいる場所も忘れ見入ってしまった。帰国後、ショボイ宝石にはぜんぜん食指が動かなくなってしまった。




←トプカプ宮殿から
ボスポラス海峡を臨む

トプカプ宮殿の門
この中には、ハーレムもあります。
←アヤソフィアはトプカプ宮殿に隣接している。


ビザンチン帝国時代のギリシャ正教総本山として約900年、オスマントルコになってからは4つの塔を持ったイスラム教のモスクにリフォームされて約500年。2つの異なる宗教の聖堂であった。イスタンブールの歴史を象徴する建物である。
その真向かいにはオスマントルコの
勢力を誇示するかのように6つの塔を持った

あの有名なブルーモスクが存在する。→
☆エーゲ海の遺跡
トルコは北は黒海、西をエーゲ海、南を地中海に囲まれている。
西はギリシャ、東はイラン、イラク、シリアや北は旧ソ連の国々と国境を接している。
ギリシャに近いエーゲ海、地中海沿岸は古代ギリシャ・ローマの遺跡が多く残っている。
遺跡だからもちろん昔のものだが、ケタ違いに古い
 トロイの遺跡
私たちが訪れたトロイ遺跡にも紀元前3000年頃の城壁や住居の土台が残っていた。今は可愛い草花が茂っている。


トロイの木馬の中から手を振ってます

夢は枯れ野をかけめぐる・・・
 エフェソスの遺跡
次に訪れたエフェソスの遺跡はもう少し新しいが、それでも紀元前1000年ごろには都市国家が興っている。
大理石で舗装された大通り。図書館、貴族の館、公衆浴場、公衆トイレもあった。



人類最初の職業?
の広告→
    



「心の寂しい人は、この足の方向に歩いてきてください。
私たちがまってますよ。」
図書館の横にある娼婦の館の
宣伝
の敷き石の広告
紀元前の公衆トイレで連れション?

ピオン山の斜面を利用して紀元前3世紀に建てられた大劇場は2万4000人収容でき、今でもコンサートホールとして利用されている。
☆パムッカレ
トルコ語で“綿の城”の意味だそうだ。
遠くから見ていたときは山頂が白いので雪山みたいだった。
石灰水の温泉が山頂から湧いて、これが長い年月をかけて造った石灰の棚田
近づくと水田に水を張ったようにコバルトブルーの温泉が溜まっている。
足をつけると温かかった。
ここは観光客も多い。小学生も遠足できていた。多分4年生ぐらいと思われる一団に取り囲まれ“ジャポネ?”と口々に話しかけてくれる。
トルコの子供はまつ毛が長く、目がパッチリして、鼻が高くとても可愛い。挙句に引率の男の先生までが何か言ってこられる。
でもトルコ語なのでさっぱりわからない??
ただニコニコしながらメルハバ(こんにちは)を連発するしかない。

車窓から見えていた森は南から東へ移動するにつれてひまわり畑やオリーブに変わっていった。
☆カッパドキア
この辺りは中部の高原地帯になる。車窓から見える景色もごつごつした岩山に変わってきた。
次にこの地方特有のキノコ岩が現れた。
この辺り一帯のキノコ岩は風雨の浸食によって出来たそうだ。
キノコも間近で見るとずいぶん大きい。迫害を逃れたキリスト教徒が岩を掘って修道院や住居にしていたそうだ。住居跡の中に入ると岩というよりは固い赤土で出来ていて、窓のある小部屋や段梯子や棚がある。
この南20メートルのところにはカイマルク地下都市。洞窟の小さな入り口の先に地下8階以上の巨大地下都市がいくつかある。アラブに迫害されたキリスト教徒たちが隠れ住んだとか。ホール・居室・キッチン・教会・墓など都市機能がすべて備わっていた。
それがかがんでやっと通れるくらいの狭いトンネルで結ばれている。何年も地上に出なかったために目が見えなくなった人もいたらしい。私たちは「ここで何年も暮す位なら敵に殺されたほうがましやね。」と話し合っていた。それくらい厳しい条件下で生きてきた人々のことを思うと、今の私たちの境遇はありがたいとつくづく実感した。
☆旅の終わりに
トルコを旅して感じたのは、トルコ人が私たちに非常に好意をもっているということ。
コンヤでは気むつかしげなおじいさんが“ジャポネ?”といって握手を求めてきた。
花やさんの店頭では店主が私たちにバラを1輪づつプレゼントしてくれた。
スーパーのレジの娘さんたちが店をほったらかしてみんな集まって自己紹介してくれる。
アンカラでは中学生くらいの女の子が一緒に写真に入ってと自分たちのカメラで撮ってくれる。しかもそれぞれのカメラで撮るので時間がかかる。
親日的なのは「大国ロシアに日露戦争で勝ったアジアの小さな国だから」とは以前から聞いてはいたのだが・・・。それにしても・・・なんかおかしいぞ???
思い切って現地ガイドのフセイン君に私たちの状況を話して聞いてみた。
“トルコ人は日本人のことこんなに好きなんですか ?”
ニヤッと笑って彼は答えた。
“日本人の細い目低い鼻のスヌーピーのような顔に彼らはあこがれて可愛いと思ってマス
なるほど。彫りの深い、濃い顔立ちの彼らから見ればそういう事か・・・
旅も終わりに近づいた頃、ホテルでテレビを見ていた伊木さんが
“この人あんたにそっくりや”と叫んだ。
と言われて画面を見ると、東洋系の小太りのおばさんが
コミカルに踊っている。
なんだ、そうだったんか!納得!!
結局私はトルコの山田花子だったのだ。

どちらがトルコの山田花子かわかるでしょうか?花より団子の私たちでした。
ただひたすらバスで移動に明け暮れ、あわただしかった旅。
今、私たちは再度イスタンブールだけゆっくり回るたびをひそかに企てている。
    とん
♪♪豚でイスタンブー〜ル♪♪
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