スイスの想い出
S36年法学部卒 森本 登
スイスはどの場所を取っても絵葉書になる美しい自然の国です。これまで私は3回スイスを旅する機会に恵まれました。その思い出を綴ってみます。
ユングフラウヨッホ頂上にて

個人旅行の想い出

最初に訪問したのは昭和49年8月の事です。当時は今ほど海外旅行が手軽に行ける代物ではなく、1ドル220円と費用もかなりの負担でしたが、丁度仕事の区切りを迎え、チャンスとばかり上司に強く休暇を願い出て、子供のころから夢にまで見た海外旅行に意を決して出発したのです。

日本航空でロシア上空を通過して、ジュネーブに着きました。早速荷物をホテルに置いてレマン湖に向いました。湖畔の桟橋に立った時、湖面より吹き来る風は非常に爽やかで、乾いている風が心地よく頬をなぜます。「やったー!とうとう憧れのヨーロッパにやって来たんだ!」と、今でもその高ぶった気持ちをはっきりと覚えています。
夕方公園に行き公園の端の方にあるビアガーデンでビールを飲み始めました。冷たいビールが乾いた喉にとても美味しく、横には若い男女が6人楽しそうにビールを飲みながら談笑していました。楽しそうだなあと思い視線を彼らの方に向けると、「こちらに来て一緒に飲もう」と誘われ、仲間に入れてもらいました。日本の事を答えたりして意気投合し楽しく飲ませて頂きました。大ジョッキ2杯飲んだところで「帰る」と言えば「まだいいじゃないか」と引き留めてくれますが、よそ者が長くいては邪魔だと思い失礼しました。帰り際に「女性3人と握手して帰れ」と言われて握手した彼女たちの手が、真っ白で非常に柔らかかったのを覚えています
その後、遊園地で今で言うジエットコースターのようなものに乗りました。当時の日本にはまだ見かけなく、そのスピード感がとても楽しかったことを覚えています。

夜、夕食を兼ねてヨーデルを聞かせるパブを探して入りました。ヨーデルを愛する者にとってはたまらない雰囲気でした。ホルンの音色、歌手の裏声、その内に女性のヨーデラが出てきて、美しく心に響く歌声をたっぷり聞かせてもらいました。その後、店員が彼女の歌ったLPレコード30㎝を売りに来たので早速買い、それを持って楽屋に行きサインを頼むと気持ちよくボールペンでEsther Egliと記してくれました。レコードのタイトルはYodel Jaubepでした。
半年後、たまたまテレビをつけると、なんとあのEgliが歌っているではありませんか。何という偶然なのでしょうか。

ご存知の通りジュネーブの街には至る所に時計屋があります。ある店で、山小屋風の形をしてブランコに乗ったアルプスの少女が動く仕掛けの時計を買い求めました。時計はダメになりましたが、山小屋だけは今も書棚に置いて、時折その時の事を懐かしんでいます。

憧れのシャモニーの村に入った時には心臓が高鳴りました。日本でいう上高地、どちらも登山基地。「シャモニーの休日」という本で読んだ通りの情景が正に目の前に広がってきました。
登山基地だけに登山用具店も多く、とある店で中ぐらいの大きさのリユックサックを買いました。完全防水でリユックサックの下部は歪曲しており、端から端に太いベルトがかけてあり、担ぐと背中とリュックの間に隙間が出来、汗で背中が濡れる事のない優れものでした。帰国後それを背負って山に行くと、皆さんから賛辞を受け鼻を高くしたものです。

シャモニーから山の上のエイギュドミデイに行くのには長いロープウエイを2度乗り換え、最後はエレベーターに乗って頂上に着きます。標高3,842M、富士山より少し高いところの展望台から東側を見ると真正面より少し右に、世界三大北壁の一つグランドジョラスの急峻な北壁が見え、そのはるか前方にマッターホルンが見えます。とても素晴らしい眺望、更に振り返って西側を見れば、純白のモンブラン(4.810M)が見え、何と贅沢な眺めの頂上かと思いました。

エイギュウドミニから見たグランドジョラスラス北壁


菊日足基金による視察旅行の想い出

2回目は、菊日足(きくびあ)の制度で、昭和53年10月15日~29日の15日間)に派遣されてスイスに行った時の思い出です。
此処で少しその制度について説明します。昭和50年代、日本の企業で流行していた、青年重役会議という制度を内田洋行も導入していて、若い人に会社の重要な課題について討議してもらい、その結論を企業経営の参考にしようという趣旨でした。当社では、推薦された15名が毎年、年2回東京本社で、与えられた議題を討議して重役会議に答申していました。その参加者には当時の久田会長が設立された菊日足基金を利用した海外旅行の受験資格が出来、論文、英語、地理、歴史の試験の結果、成績優秀者上位2名が、滞在手当迄ついて、毎年海外視察に派遣されていました。渡航の場所や目的は本人の自由です。私は是非海外に行きたいと準備し、昭和53年の試験に首尾よく受かり、ヨーロッパを選びました。論文は、興味のあった「北欧の家具」について作成しました。その経験はその後の私の考え方にも好い影響を与えてくれ、久田会長には大変感謝しています。

ルツェルンからピラトス山(2,132M)へは、マッチ箱のような小さな登山電車で世界一の急勾配を何度もスイッチバックを繰り返して1時間半程で頂上に着きます。途中車窓から下を眺めると、単独や家族ずれでハイキングをしているのが見えます。「楽しそうだなあ、定年後には家内とここに是非ハイキングに来よう」と思いましたがそれは残念乍ら夢に終わりました。

ルツエルンの街角にて

ピラトス山頂上からの眺望

ピラトス山頂上にて現地案内人と


定年後のパック旅行の想い

平成18年10月29日~11月9日の12日間に、イギリス、ドイツ、スイス、フランス、イタリアの5か国を廻るパック旅行で、3度目となるスイスを訪問し、家内の行きたがっていたユングフラウヨッホ、グリンデルワルトを訪れました。

ユングフラウヨッホに行く途中の乗り変え駅では、1時間ほどの待ち時間を利用して、駅前の小高い丘の上にある新田次郎の石碑を見学に行きました。奥さんの藤原てい氏が、生前の彼の意向を汲んで、「アルプスに主人の骨と万年筆をうずめてあげよう」と言っていたのを新聞で読んでいました。石碑は縦50㎝、横1m位、「アルプスを愛した男ここに眠る」と日本語で刻まれていました。この石碑を見ると新田次郎の顔、著書「アルプスの谷アルプスの村」等の本がすぐに頭に浮かんで来ました。
その後、登山電車に乗ると右手にはグリンデルワルトの家々が見えてきました。何回も写真で見た光景が目の前に広がって、「これがグリンデルワルトか」と、その美しい現実の景色に夫婦2人して固唾を飲みました。

乗換駅クラウネシャイデックの駅前 美しいグリンデルワルドの風景


やがて登山電車はユングフラウヨッホ駅に到着。高度3,454mでヨーロッパの鉄道駅で一番の高所にあり、頂上からはユングフラウ、アイガー北壁、メンヒの山々の絶景が広がっています。登山電車で急に標高の高いところへ登ってきたせいか、登山病のようなふらつきを少し感じました。駅の売店で買ったビールを飲みましたが、こんな高いところで飲むのは初めてで、ビールの酔いが加わって、気分は良いがふらつきは更に増しました。家内は頂上から見る素晴らしい眺めの山々に加え、純白の氷河の美しさにとても満足しており、一緒に来てよかったと思いました。

氷の廊下

ユングフラウヨッホ頂上にて

ユングフラウヨッホ頂上にて2 ユングフラウの山々


番外編

さて、このパック旅行では数々のハプニングがあり、今となっては懐かしい思い出です。
旅の6日目の行程は、朝7時にスイス、インターラーケンを出発し、夕方ジュネーブでTGVに乗車して夜の10時30分にパリに着く強行軍の予定でしたが、実際にはそれが1時間ほども遅れたのでした。38名のツアー客は3両に分かれて分乗し、3号車は私が添乗員の代りを務めました。検札時に車掌から人身事故の為パリ到着が約1時間遅れると聞いて、皆さんにそれを伝えると、「えーっ」と一斉に驚きの声を上げ、車掌がびっくりして振り返るほどでした。案の定、パリ北駅到着は11時40分、更にホテル到着は夜中の1時前で、ただでさえ強行軍なのに、年配のツアー客は私達を始めとても疲れました。後日、パリの北駅到着時の時刻を写した写真を同行の方から送って貰いましたが、この写真を見る度にその時の印象がまざまざと思いだされます。

パリ駅深夜到着時刻


8日目の事、朝7時パリ発ローマ行の便。定刻に離陸しましたが、添乗員がやって来て、「荷物を積み込む係員組合のストがあって、皆様の荷物は、この飛行機に乗っていません。後便で夕方までにホテルに届きます」とのことで、預けた荷物の特徴を聞いて回っていました。ローマ到着後、添乗員は、ツアー客の荷物の明細を空港事務所に提出する手続きの為別行動、その間添乗員の重い荷物や旅行社の旗を預かり、ツアー客を誘導して出口で我々を待っていた現地案内人に引き継ぎ、ほっとしました。添乗員は乗客の一番前に並んで手続きをしましたが、イタリアらしく40分程もかかって、我々の待つバスにやっとのことで顔を出しました。おまけに、夕方までにホテルに着くはずの荷物は、三日目になって漸く揃い、その間、持病のある方は薬が服用できずにとても困ったようで、貴重品は必ず身につけているべきとつくづく思いました。

以上

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