パート1では「日頃うかがい知れない多才な才能面」から
「この人」に迫ってきましたが、
このパート2では支部に貢献して来られた「経営者達の仕事、趣味」から
人物像を浮かび上がらせたいと思います。

ここで登場するのは今から25年ほど前、当支部の
立ち上げの中心人物石原幸一さん、石井清隆さん、
橋本公作さんの御三家に登場してもらいましょう。

この3人は前支部長前内宏文(現名誉支部長)の号令のもと
今の支部の礎を築き、そして今もそれを支え続けている
という立派な御仁で「高槻・島本支部」の重鎮です。



石原さんといえば、
先ず1に仕事、2にお酒 3、4はなくて5番目にゴルフ 


会社でインタビューを受ける石原さん


でも若いときは違いますよ!

それでは学生時代から 


大学時代の石原さん
学生時代はまじめな “日本拳法青年
  (憲法とは違いますよ!)

現在の石原さんからは想像できないスマートは美青年(失礼!)


高校時代は柔道部に籍を置き2段まで進級したが、
当時、柔道競技には現在のような階級制がなく、
体の軽い自分では重量級の選手にかなわないと考え
大学では全く経験が無い拳法部に入部。

入部すると先輩たちに殴られることから始まり、
全身に傷を負いながら、4年間歯を食いしばって頑張ってきた。

拳法部は上下関係がはっきりとして、
下級生が上級生に反抗すると練習で徹底的にしごかれる。
石原氏もしごかれた内の一人であった。

上級生に少しでも文句を言えば、上級生が入れ替わり立ち代わりに、休む間もなく練習の相手をされる。
練習が終わればダウンして立ち上がれない。
こんな苦しみを知りながらも度々上級生にたて突いた。

このしごきが石原氏には実力が付くことになって、4段を獲得
毎年、大会には上位に進出ことができた。
大学3年の時に関西大会で1位、そして全国制覇を果たした。

石原さん在学中の拳法部の戦績

昭和33年  関西1位 全国2位
昭和34年  関西2位
昭和35年  関西1位 全国1位 (石原氏3年生の時)
昭和36年  関西2位 全国4位


今は OB会の監査役をしている
参考資料 日本拳法とは:

日本拳法は、大阪発祥の武道です。昭和7年に故・澤山宗海宗家が創始された、防具着装による実戦の総合徒手格闘技です。安全な防具を着装することにより、突き・蹴り・投げ・逆捕りのすべての実戦練習が可能となり、格闘技の神髄を追求すべく日本拳法が誕生しました。(防具外への突き、蹴りは禁止、少年は顔面の攻撃は寸止め、投げ、関節技が禁止)


ここでプロフィールをご紹介

石原氏は大阪の立売堀に生まれ、
戦争中は奈良県に疎開し、
小学校4年の時大阪に戻り、生野区の寺田町あたりに住まう。

生野中学、ここで奥さま(同級生)と出会う

天王寺商業高校に進学し、
高校時代は柔道部に籍を置き2段まで進級した。

その後、関西学院大学の文学部社会学科に進み、
たまたま拳法部の練習風景を見たときに、激しい格闘姿に興味を持ち
柔道部にはいかず直ちに拳法部に入部した。

石原氏は1961年(昭和36年)大学卒業と同時に、
他社に行くことなく父が経営する会社に直ちに入社した。


次に 商工会議所 での活躍

石原さんは早くから高槻商工会議所に所属し、
前内名誉支部長からバトンを受け継ぎ、
異業種間交流会長並びに産業部会の部長などを歴任して、
地域経済の活性化などに尽力されてきました。

現在は常議員として所属されています。

高槻商工会議所は昭和22年7月に設立され今年は創立66年を迎えます。


お 仕 事

「株式会社アクト石原」の経営者。
そろそろ後期高齢者の仲間に入る年齢になった現在も、
海外関連会社(シンガポール、マレーシア、香港、フィリピン、タイ)に毎月出張すると共に、
主として本社では15人が走り回る営業の統括をしている。

株式会社アクト石原 http://www.act-i.co.jp/

石原氏の父は1924年(大正13年)に大阪西区の立売堀にて木箱や・パレットの製造を開始。
石原製函株式会社として発展し、88年間に亘り新しい商品を開発しながら、物流には絶対欠かせないケースを各地に提供している。

その後1958年(昭和33年)に高槻市大畑町に高槻工場を新設し、この時からダンボールケースの製造販売を開始した。

1993年(平成4年)社名を株式会社アクト石原に変更。

以降、会社は時代のニーズにこたえる商品を次々と開発し、また自動合理化新鋭機を導入し、工場の合理化を進め、現在ではトヨタ方式のように、朝、原材料が入荷すると直ちに生産を開始し、その日の夕方には出荷するという、倉庫には在庫を置かないということで、工場内は小スペースですっきり。

現在、会社は合成樹脂製品、包装副資材、簡易仮説トイレなど、世の中で要求される製品を製造。



初代社長:石原氏のお父様
   
   



中学の同級生の奥さまと中睦まじく、同窓会行事にはいつも一緒

間もなく後期高齢者だなんて絶対に思えない!
若々しいお二人です。


【訪 問 後 記】

12月6日(木)に廣原と渋谷とが「アクト石原」の本社を訪問して、石原氏にインタビューをしました。
出生から育った場所、学生時代には拳法で苦しんだ話などを聞いたあと、
会社案内の映像を見て、さらに工場見学をしてから、
入社から現在までの企業活動の内容について詳しく語ってもらい、
2時間余りお邪魔しました。


左 インタビューを受ける石原さん
右 インタビューをする廣原さん 同期のお二人


いまだかって支部のホームページを見たことがなかった石原さん
(一生懸命作っている広報としてはショック!!)

廣原さんに見せてもらって、ご自分の写真が載っていることに驚きのご様子でした。


石原さんは
得意先は3,000軒ほどあり、毎年、お正月の新年挨拶に得意先を訪問するときは、
名刺は300枚が必要とのことです。
というのは、得意先の経営者は世代交代で引退されるので、初めてお目にかかる方が毎年増えていくという訳です。

間もなく後期高齢者の仲間に入る年齢になったせいですね。

石原さんは営業マンにいつも指導していることは、
「得意先が新しく出そうとしている商品の情報をいち早くキャッチして、
即、それに合うダンポールを相手に提案する事が大事である」と力説されていました。

ダンボールの送り先は食品関係が多く60%を占めている。
一日の生産量は20万個になることが常に可能である。1分間に小さいもので(引っ越し用「蟻さんマーク」)200個余り、大きいもので100個余りが生産されます。
大量のダンボールを生産するにもかかわらず、工場内には全く埃はなく、清潔そのもの、
その訳はダクトで吸い込み外部で集めていること、そして切れ端はすべてリサイクルに回すことで全く無駄がないことに私達は納得した。

石原さんの仕事はまだまだ現役のため多忙で、同窓会活動にお手伝いできないことを申し訳なく感じておられますが、20年余りに亘って同窓会支部活動に尽力され、またグリークラブのプログラムに広告に協力頂いていること、支部としては大いに助かっていることに感謝を申し上げたいと思います。
石原さんまだまだ仕事に精を出してください。健康に気を付けてください。応援しています。
  

                                                                        
訪問記及び写真 廣原 祥隆
                             渋谷 孝

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